1992年発売された STV-コメット社 CX-SPORTは他者製品に比べて特に目新しい構造やスペック上
特筆すべきものはなかったように思います。それでもよく売れて日本中CX-SPORTだらけになりました。
なぜあんなに売れたんだろう?
もう一つの理由が1人の伝説の営業マンの努力です。
パラグライダーのインストラクターだった彼は1991年の秋、スキーのアルペンで有名な潟Wャパナーに入社
します。ジャパナーがパラグライダー事業を始めたのです。当時どこの町にもあったあの白い三角屋根の
アルペンでパラを扱うようになるという話題は、パラ業界にとっても注目の的でした。
ジャパーナではコメット社の製品を輸入し、もともとスキー用品のお得意様であるスキースクール兼パラス
クールと提携し、専用スクール等も運営していたようです。
その営業マンは、寝る間を惜しんで全国津々浦々のクラブエリア・スクールをしらみ潰しに回りました。
多くの人たちと交流を深め、惜しげもなく試乗を薦め、隣では自ら安全性と飛行性能をアピールするための
派手なデモフライトを披露していました。
こちも達者で、リアルタイムでフライヤー達のニーズもよく理解していました。彼の飄々とした風貌と、
マジメで嘘のつけない人柄のおかげもあるでしょう。ある営業先では一日に18機の注文をもらったことがある
そうです。
一方、同業者には「スキーのアルペンあたりで、何も知らない一般人にパラを安値で乱売されても困るなあ」
という危惧もありました。
結果的にジャパーナはコメットを扱う普通の輸入代理店で収まり、アルペンには契約スクールの案内程度しか
置いていませんでした。つまりパラグライダーが特殊なスポーツだということを社内外にアピールして、大企業
にありがちな暴走を食い止めたのも彼の功績だと思います。
1993年には初中級機「ディスカス2000」を発表し、トータルバランスの良さで大ヒットとなりました。がこれを
ピークにコメットのブランドネームは見かけなくなります。
その伝説の営業マンも今ではパラ業界を離れ、田舎でのんびり農業に従事しながら週末フライトを楽しんでいる
とか。